2011年06月20日
大岡越前守忠相ゆかりの豊川稲荷
今回は元赤坂、粋な町にある豊川稲荷東京別院を訪ねます。都心の真ん真ん中であることを忘れさせるこの場所は、なんと大岡越前から芸能人ゆかりのパワースポット。境内は御利益満載、1度足を運んでみてはいかが-。
(写真=今だ線香の煙が絶えない大岡越前守御廟)
東京メトロ赤坂見附駅のB出口を出て、青山通りを5分ほど歩くと豊川稲荷(港区元赤坂1の4の7)にたどり着く。
稲荷(いなり)の周囲は緋色(ひいろ)のちょうちんが満艦飾で、さながら戦艦のようである。
千本のぼりがはためき、「稲荷」というから神社であろうと思ったが、れっきとした曹洞宗の寺院だという。
江戸時代の名奉行で、ご存じ南町奉行の大岡越前守忠相が、領地三河に古くから伝わる円福山妙厳寺の本尊・豊川咤枳尼真天(とよかわだきにしんてん)を信仰。忠相の子孫が1828年(文政11)、赤坂一ツ木の下屋敷に勧請し、87年(明20)に大岡邸が元赤坂に移転するとともにこの地に移った。本尊が稲穂を担ぎ、白いキツネにまたがっていることから「豊川稲荷」が通称になった。
境内に入ってちょうず舎の右が本殿で、その左手に「大岡越前守御廟(びょう)」があり、線香の煙が絶えない。
大岡越前といえば「大岡裁き」。俗に言う講釈「大岡政談」は架空とされるが、8代将軍徳川吉宗に仕え、町火消し「いろは四十七組」を組織、貧窮者のための小石川養生所の開設など数々の改革を行ったのはあまりにも有名。庶民には落語の登場人物としていくつもの噺(はなし)になっている。
しばし一席、お付き合いを。
「三方一両損」は8代目三笑亭可楽がうまかった、と聞く。
3両拾った白壁町(現神田鍛冶町)の左官金太郎が、落とし主の竪大工町(内神田)の大工吉五郎ところへ届けに行くが、「1度落としてしまったからにはもう自分のものではない」と突っぱね、受け取らない。金太郎も、そのまま自分の懐に入れては江戸っ子の名折れと無理に受け取らせようとする。取れ、取らぬで大げんかになり、ついに決着は大岡越前の白州に持ち込まれた。越前はおもむろに懐から1両を取り出し、金子をあわせて4両とした上で、2両ずつ2人に与えた。
「双方、3両受け取れたところ2両となって1両の損。この越前も1両の損。よって、三方一両損」。
オチは、裁きの後に出された、ほうびのごちそうを2人がガツガツと食べることから、越前が「これこれ、大食いするでない」。これに対し「なぁに、多くは(大岡)食わねぇ、たった一膳(越前)」-。
もうひとつは「大工調べ」。
5代目春風亭柳朝のタンカが小気味よかった。
腕はいいが少々能天気な大工与太郎が、たまった店賃1両800文のかたにと、家主源六に道具箱を取り上げられてしまう。これを聞いた大工の棟梁(とうりょう)政五郎は、1両を渡してこれで道具箱を返してもらえと言う。800文足りないと言う与太郎に、政五郎は「1両なら御の字だ。800くらいあたぼうよ!」。
それを与太郎がそのまま源六に言ったから、いよいよ怒らせる結果になり、道具箱は返してもらえない。結局、政五郎と源六との間で口論(柳朝の、江戸っ子ならではのタンカが聞きどころ)となり、ついには越前の裁きとなる。
両者の言い分を聞いた越前は、まずは与太郎に、政五郎から800文借りさせ店賃を完済させる。その上で大家には質株も持たないのに道具箱を質草のように預かった科(かど)で、その間の手間賃20日で300匁(もんめ)払うよう申しつける。
オチは越前いわく「しかし棟梁(とうりょう)、二十日で三百匁とは、ちと儲かったな。さすが大工は棟梁(細工は流々)」。
「へい、調べ(仕上げ)をごろうじろ」-。
お後がよろしいようで。【石井秀一】
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2011年6月20日| コメント( 0 )


