2012年2月15日
◆イスタンブール歴史地区(トルコ)上◆(1985年登録)
東西文明の十字路、シルクロードの終着点...イスタンブールはさまざまに形容されている。街を歩くと、さまざまな国からの旅行者も多いのだろうが、行きかう人の顔で西洋、東洋入り交じっているのが実感できる。2004年、行ってみた。トルコに行けば、まずはこの魅惑的な街に入るのがほとんどだ。「アヤソフィア」「ブルーモスク」「トプカプ宮殿」と、日本でいえば清水寺や金閣、法隆寺といったところの歴史的建造物が待っている。

ブルーモスクから入ってみた。イスタンブール市内では「○○ジャミイ」というモスクがたくさんある。ブルーモスクも正式名称は「スルタンアフメット・ジャミイ」で、17世紀にアフメット1世が建てた。モスクの目印はミナレットという尖塔と丸いドームの屋根。ミナレットは、塔の上から信者に向けて礼拝時間を知らせるアザーンを流すところで、かつては生の声だったというが、いまではたいていはスピーカーから流れてくる。高さや数が、そのモスクを建てた人の権力の強さを表すというが、ブルーモスクは世界で唯一6本。建築家が「アルトゥン(黄金)のミナレットを建てろ」という命令を「アルトゥ(6本)」と聞き間違えた、という話があるというが、さて。ドームの高さが43メートルというので、ミナレットはその倍近くはありそうだ。

名の由来は、外からでは分からない。中に入ると、壁面がイズニックタイルという青系のタイルで飾られているのが、ブルーモスクの由来だという。暗いせいもあるかもしれないが、全体に白っぽく感じた。ただ、近づいてタイルを見ると、青を基調とした繊細な模様が焼き付けられているので、うなずける。見上げると、直径27メートルの大ドームが印象的だ。


ブルーモスクに向かい合うようにして建っているのが、アヤソフィア。徒歩数分。その道々、土産物売りが寄ってくる。あやしい日本語で話しかけてくるので、興味がある方は日本語で勝負してみては。タンクのようなものを背負ったジュース売りもいる。
アヤソフィアは、隣り合っているブルーモスクと肉眼で比較しても一回りは大きい。ドームの高さは55メートルある。「聖なる英知」を意味するギリシャ語でハギア・ソフィアがトルコ語でアヤ・ソフィアになったという。4世紀にビザンチン帝国のコンスタンチヌス2世が建てたキリスト教会だが、地震で崩壊して6世紀に再建後、15世紀にオスマン・トルコによってモスクに転用されたという。

メフメット2世は、アヤソフィア内部に描かれたキリスト教のモザイク画を破壊せずに、しっくいで塗りつぶした。ミナレットを建てたが建物はそのまま使った。中に入って、大ドームを見上げる。見事なアーチは1500年も前のものとは思えない。通常、モスクの中にはイスラム教徒以外は入れないことが多いので本来のモスク内部の構造はよく知らないが、ここは基本的にはキリスト教の大聖堂の構造のまま。壁には巨大な円盤が掲げられ、古いアラビア文字でムハンマドらの名前が書かれている。もちろん読めないが、「ここはモスク」と主張しているようだ。1階は礼拝のための場所のようで、華美な装飾もない。

2階に上がる。1950年ごろまでに、塗りつぶしてあった漆喰をはがし、博物館になったことで、かつて教会だったころのモザイク画が見られるようになった。特に有名なのが「請願」。キリスト、聖母マリア、ヨハネが描かれている。半分以上が失われているが、顔はしっかりと残っている。

「キリストと女帝ゾエ夫妻」では、女帝ゾエは3度の結婚のたびに夫の顔を描きなおしたといい、3番目のコンスタンティヌス9世が年配に書かれているのに比べて、最初に描かれたまま残るゾエは若々しいままというアンバランス。「聖母子と皇帝家族」も保存状態がいい。モザイク画は10~13世紀ごろに描かれたそうだが、鮮やかな色彩が残っているのはモスクになって漆喰で塗りつぶされて保護されていたからかもしれない。後世にとって何が幸いするか分からない。


小さな穴があいた柱があった。「親指を穴において、手を1回転できたら、願い事が叶います」とガイド。意外と簡単なので御利益があるかどうかは分からないが、お試しを。
◇食べてみました◇
青魚好きとしては、イスタンブールに行ったらサバサンドを食べよう、そう思って、店が並んでいるというガラタ橋に行こうとガイドに聞いた。「残念ですが、衛生上の問題があって販売を中止しています」。え? 今は販売が再開されているという。
気を取り直して、トルコ料理。フランス、中国と並んで「世界3大料理」といわれている。それぞれの中に様々な料理があるから、何をもって「3大」なのかは今ひとつ釈然としないが、確かに旅行中に出された料理は外国人向けなのかどうかは分からないが、口に合う。脂っこそうで意外とあっさりしていたり、香辛料が効いているが効きすぎていないとか、微妙さがいい。

肉料理では、ケバブとキョフテ。ケバブは羊や鳥肉を焼く料理全般のことで、大きな肉塊を立てて回転させながらあぶってそぎ切りにした「ドネルケバブ」、串に刺す「シシケバブ」などは知られている。キョフテは挽き肉料理でハンバーグだが、香辛料などで味付けされている。エジプトで食べた「コフテ」と同じようなものなのだろう。挽き肉に混ぜるだけでキョフテになる調味料を買ってきてつくってみたが、現地の味そのままだったので、気に入った方は食料品店でどうぞ。

料理はあきないが、最後には「もう勘弁」と思ったのが、毎回のように出されるデザートの甘さ。特に「バクラヴァ」というパイの蜂蜜漬けの連発に、最後はごめんなさいだった。

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2012年2月 8日
◆グレートバリアリーフ(オーストラリア)◆(1981年登録)
ケアンズ空港に着いて荷物をピックアップしたら、トランクの車輪がひしゃげていた。以前、ロンドンで車輪が1つなくなっていて使用不能になったのを思い出し、慎重に蹴飛ばして何とかまっすぐにしたら、キーキーいいながらも動いてくれた。グレートバリアリーフというのは、子供のころテレビでみた紀行番組の中で、クストー船長のカリプソ号がよく行っていたところだったと記憶している。1998年、行ってみた。
グレートバリアリーフの玄関口の1つ、ケアンズから1日クルーズを申し込んだ。オーストラリア大陸の東部に、南北約2000キロも続く大サンゴ礁。大小約600の島々が点在する。1日では雰囲気だけでも。乗り込んだ船は、フィッツロイ島に立ち寄った。ここで2時間ぐらいフリータイム。桟橋のすぐ脇から白砂の浜が続いている。気の早い人は桟橋から飛び込んでいる。砂浜の砂の大部分はサンゴのかけらだという。海に入ると遠浅で、そこら中に魚が泳いでいる。私が熱帯魚です、といった黄色や青のものや、地味な色の魚も。水面の上からでも眺められるほど、波は穏やかで透明度も高い。やっぱり、端っことはいえ、ここはグレートバリアリーフなのだ。

ポケットに乗船券を入れていたのを忘れて泳いでしまったため、びしょ濡れでちぎれそうな券を差し出して出発。風に当てて乗船券を乾かしながら、目指すのはアウターリーフにあるポンツーン。サンゴ礁の上につくられた桟橋兼海の家といったところで、ここを拠点にいろいろな遊びができるという。到着後、すぐにメニューの中から希望することをさせてもらえる。残念ながらスキューバダイビングの経験がないので、まずはシュノーケリングにした。鮫よけ?のネットに囲まれたポンツーンのすぐ横で中をのぞくと、きれいなサンゴと熱帯魚が見える。水深は5メートル以上はありそうだが、透明度も高く、底まで潜らなくてもよく見える。しばらく海の中にくぎ付けになった。

次に、半潜水艦に乗船。海面下5~10メートルほどのところを潜水して進んでいく。側面と底がガラス張りになっているが、少し曇った感じで海の中が見られる。ショノーケリングでは下のほうに見えたみたサンゴが間近にある。ただ、でかい魚がやってきたと思ったのだろうか、サンゴの間にいたカラフルな熱帯魚は逃げてしまったようで、ポツリポツリといるだけ。ほとんどサンゴだけしか見られない。ちょっと迫力不足か。水中の写真はガラス越しなので、雰囲気だけでご容赦を。

気を取り直して今度は船底がガラス張りになったグラスボートに乗り込む。これは海面を進んでいくので、ポンツーンよりかなり離れたところまで行ってくれる。水の色が違い、ポンツーンの周りよりも澄んでいる感じ。テーブル状、丸っこいもの、定番の枝が広がっているもの...いろいろなサンゴをみせてくれる。もちろん、魚たちも。そんなこんなで時間はあっという間に過ぎる。グレートバリアリーフの玄関ドアをたたくぐらいではあるが、けっこうおなか一杯になった。

帰りは波が少し高く、遊び疲れの船酔いに悩まされる人がけっこういた。私は三半規管が丈夫なようで、これまでも船酔いしたことはないが、ガイドからのアドバイスを1つ。「トイレの便器を見ただけで吐きたくなるので、無理にこもらないように。風に吹かれて遠くを見ていた方がいいですよ」。一理ある。

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2012年2月 2日
◆聖地キャンディ(スリランカ)◆(1988年登録)
世界に数本しかないという仏教の開祖、釈迦の歯(仏歯)がスリランカにある。キャンディという覚えやすい名前の街に2008年、行ってみた。
街に着いたのは、午後遅く。仏歯が納められている寺院はダラダ・マリガーワ、通称仏歯寺という。寺院の前にはキャンディ湖が広がっており、湖越しにながめながら、スリランカカレーの遅い昼食をとる。仏歯寺に行くのは夜だという。「仏歯を見られるのは夜ですから」とガイド。あとから聞いた話では、1日3回、仏歯を納めた聖堂の扉が開かれる「プージャー」があるという。

地元で受け継がれているキャンディダンスを見学した。中でも「火渡り」という真っ赤に焼いた石の上を歩くのは、ダンスというより、修行だろう。日が暮れたところで特長ある八角堂を持つ仏歯寺に行く。男女別の荷物検査、X線検査を受け、靴は脱いで中に入る。石造りなので、足の裏がヒヤッとする。入り口には象の絵が描かれている。毎年キャンディで行われるペラヘラ祭では、きらびやかな衣装を着けた象の背中に仏歯が乗せられ、街を練り歩くという。その場面だ。


上がったり下がったり、迷路のような通路を通り、2階に上がる。プージャーの時間は正確には決まっていないようで「ここで並んで待ちましょう」とガイド。既に列になっている。太鼓と笛の音が合図になって聖堂の開門が分かるようで、ざわつきが大きくなると列が進み始めた。「聖堂に入って仏歯が入った仏塔の前で拝みます。立ち止まらないように」とガイドから教わり、聖堂の扉のところで順番を待つ。一度に十数人程度が招き入れられ、1列になって仏歯が納められた金色の仏塔を模した容器の前を通るだけ。一瞬立ち止まって手を合わせたが、すぐに進むように促される。聖堂を出て回り込んでみると、聖堂正面の通路にも人がたくさんいて、遠目に見える金色の容器に手を合わせている。

残念ながら仏歯そのものは見られないが、数年に1度ぐらい公開されるといい、ガイドは見たことがあると言った。「このぐらいありました」と指で長さを教えてくれたが、5センチぐらいありそうで、少々大げさなのか、本当にそんなに長いのだろうか...。ガイドによると、仏歯は2500年ほど前の紀元前543年(諸説あり)に火葬された釈迦の左の犬歯(右の説あり)だという。インドのカリンガ国にあったが、4世紀に敵対国との戦いで奪われないように、カリンガ国の王女(王子説あり)が髪の中に隠してスリランカに持ち込んだ。遷都などで移動したが、1590年にシンハラ王朝最後の都だったキャンディに落ち着き、当時の王ウィマーラ・ダーマ・スリヤ1世が仏歯を祭る寺院(仏歯寺)を建てて納めた。1階に降りると、聖堂の1階部分が見られる。この仏歯寺はこの聖堂を覆うために建てられた2重構造になっているらしい。1階の扉は閉じられていて中を見られなかったが、黄金仏が安置されている。

新しい黄金仏の部屋もあった。中央の黄金仏の両側には、仏教国各国から奉納された仏像が並び、日本のものも置いてある。ここには、仏歯がスリランカに伝えられた物語が描かれた絵も掛かっているので、わかりやすい。


仏歯は何度も失われる危機に遭ったといい、19世紀にポルトガルのキリスト教徒が仏歯を破壊しようとしたが、信者が偽物を使って守ったという。最近では1998年に爆弾テロの標的になった。仏歯寺の象徴的な建物でもある八角堂周辺の破壊がひどかったという。そんな苦難を乗り越えてきたのも仏歯の力なのだろうか。お釈迦様といえども4本しか持っていない犬歯の1本がここにあるのだから。

◇寄ってみました◇
♪この木、なんの木、気になる木...♪皆さんの耳についている歌に出てくる「気になる木」が、スリランカにもあるという。キャンディ市内にあるペラデニア植物園で、14世紀にパラークラマ・バーフ王が王妃のためにつくった庭園を元に、19世紀に植物園として整えられた。各国要人もここに植樹している

「気になる木」は「ジャイアントジャワビロウ」と立看板に書いてあった。テレビCMと同じだとガイドは言っていたが、あとで調べたら違った。根元に入ると少なくとも2本の太い幹があり、枝が伸びてくっついている。枝は地をはうように伸びており、地面に刺さって根を張っているような枝もあるので、木全体の構造がどうなっているかよく分からなかった。CMで流れているハワイの「気になる木」とは違うが、負けないぐらいりっぱな木であることは確かだ。お尻の形に似た世界最大の実をつける双子ヤシもあるが、実はついていなかった。

園内には4000種以上の植物が植えられている。スリランカだけではなく世界中のランの花を集めた室内庭園は、ラン好きではなくとも見ごたえがあるので、ぜひお立ち寄りを。広い園内、歩いていくと不思議な風景に出合う。杉系の並木があるのだが、1本1本がいろいろな方向に傾いていて、まっすぐ立っていないので、見ている自分の体も傾いているように思えてくる。「風の影響で、曲がってしまったようです」とガイドは説明したが、一方向に曲がっている訳ではないので「???」という感じだった。

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2012年1月25日
◆ハバナ旧市街と要塞(キューバ)◆(1982年登録)
マイアミを飛び立つと、キューバの島はすぐに見えてくる。1992年、野球の親善試合取材などがあり、行ってみた。当時は国際空港とはいえ、施設からいえば日本の地方空港よりこじんまりしていた。タラップを降り、徒歩で空港ビル(といっても平屋に近い)へ。今は観光に開かれているようなので、もっと整備されているのだろうか。
ホテルに着くと、若い女性が2人、話し掛けてきた。1人はスペイン語のみ、1人が英語を話す。体制が違う国から来た記者には車付き(ガソリン代は別)でこうした「監視役」がつくらしい。国家公務員の「コーディネーター」だが、取材希望を伝えると、その場で連絡を取り、ほぼその通りにしてくれた。仕事の手際は早かったが、それ以外の時間まで決められた。観光や食事などスケジュールが立てられ、街を自由にぶらつく時間はあまりなさそうだ。外国人専用なのか、ホテルは繁華街から離れた海岸にあり、車が帰ってしまうと籠もるしかない。あまり外を歩かれたくないのだろうかと感じた。連れて行かれた中華料理店にはりっぱなメニューがあったが、できる料理は数種類だった。米ドルしか使えず、現地通貨に初めてお目にかかったのは、ホテルでファクス代を支払い、硬貨でおつりをもらったときだった。

ハバナ市街の海岸道路を走り抜け、連れて行かれたのが世界遺産の4つの要塞のうち「モロ要塞」。キューバは、1492年にコロンブスが発見した島。ハバナは、公用語のスペイン語では「ラ・アバナ」。16世紀初頭にスペイン人が移り住んだのが始まりだという。16世紀から17世紀にかけて外敵の侵入を防ぐためにハバナ湾の入り口を守っていたのが「カリブ最強」といわれたモロ要塞と対岸のプンタ要塞。モロ要塞は保存状態がいいそうだ。赤茶色にさびた大砲が、湾に向けていまでも備え付けられている。要塞内部に入ると、銃眼のような穴があり、青い海がのぞく。対岸にハバナ市街が広がり、空もどこまでも青く澄んでいる。社会主義国家ながら、さすが「カリブの真珠」だ。時折「写真、撮りましたか」と聞かれるが、要塞についての詳しい説明はほとんどしてくれない。

ハバナ旧市街に戻る。17~18世紀ごろの建物がその当時のまま残されている。スペイン・コロニアル(植民地)様式というそうで、光を取り入れた白い壁、瓦屋根、中庭が特徴という。旧市街にはキューバ革命でも残り、いまも使っている建物がほとんどだった。石造りの建物群の中で、目立つのが教会「カテドラル」とその前に広がるカテドラル広場。大きな教会の建物は、周りの景色にぴったりはまっているが、ちょっと違和感が。よく見ると、聖堂前にある塔の大きさは違う。普通は左右対称につくられそうなものだが、時代が違うのだろうか。

そこから少し路地を入っていくと、不思議な、タイムスリップした気分になる。映画でしかみたようなことがない、1940~50年代の米国製「クラシックカー」が、普通に止めてある。塗装が薄くなっているほか、外観上はだいぶガタはきている。「部品も自分たちで作っているんです」と、大切に使っているという。ガソリンが高いため、止めたままの車も多く、街中が自動車博物館のようで、こちらも世界遺産級だった。


歩いていると、道端に机のようなものを出して、キューバ特産の葉巻づくりをしている光景が目に入る。おじいさんがテーブルにでかい葉をドサッと置いて、1枚1枚、丁寧に巻いていく。つい立ち止って「葉巻」になっていくところに見入った。巻き上がると、見ているこっちにニヤリと笑いかけてきた。こんなりっぱな葉巻は吸ったことがなかったが、その笑顔に吸い込まれるように1本買ってしまった。ドルを使わせる国家公務員の作戦は成功していた。

◇飲んでみました◇
キューバといえばヘミングウエー。「老人と海」は、ハバナ郊外の村が舞台になった。旧市街に残る行きつけのバー「ボデギータ」に、コーディネーターと別れた後、現地で知り合った日本人の方々に連れ出してもらった。雑然とした店内、壁(たぶん元は白かったのだろう)には無数の落書きがある。注文したのは、ヘミングウエーが好きだったという「モヒート」。ラム酒ハバナクラブに砂糖にレモンを絞り、ソーダを注いで茎のついたミントを浮かべる庶民の酒という。


ダイキリを生んだバーも近くにあるらしい。キューバ・リブレは、甘さが普通のコーラの100倍(!)というキューバ産コーラをハバナクラブに注ぐのが正式とかで、体育協会のレセプションでいただいた。ホテルで飲んだ缶ビールはどれも冷えていないのに泡が立たない。缶の表示によると、アルコール度14%、15%と日本の3倍。「キューバの人はお酒が好き。でも、1本で済むようにアルコールを高くしているんです」と、コーディネーターは説明した。
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2012年1月13日
◆アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群(エジプト)下◆(1979年登録)
ヌビア地方というのは、ナイルの上流、今のエジプトとスーダンにまたがる地域のことで、「ヌビア」とは黄金の意味だという。金が採れた。となれば、だれかに狙われる。エジプト王朝は、ヌビア遠征と称して古王国時代の紀元前2600年ごろには既に支配下に置いた。ただ、搾取されているだけではなく、エジプト王朝が不安定だった紀元前747年にはヌビア(クシュ王国)の王がエジプト全土を征服して第25王朝を立ててしまったというから、被征服者としては痛快だっただろう。
現在は、アスワン・ハイダムによって、かつてナイル川に沿って栄えた場所が水没してしまっている。数多くの遺跡もあったが、アブ・シンベル神殿はじめユネスコの救済事業で移築などによって助かったものもある。ダムの街アスワンにはヌビア遺跡群の1つ、フィラエ神殿(イシス神殿)がある。ナイル川に浮かぶフィラエ島にあったが、少し高い隣のアギルキア島に移築された。この島は、改名した上に元のフィラエ島に似るように改造されたというから、ただの移築ではない、こだわりを感じる。島へは、渡し舟でいく。

船着場から上っていくと、イシス神殿に入る四角い塔門が目に付く。アブ・シンベル神殿が壮大すぎて比較にならないが、こじんまりして実用的な神殿という感じ。壁に刻まれたレリーフがくっきりしている。移築される前に数カ月、壁の半分ぐらいまで水に浸かっていたので色が変わっていると説明されたが、気にならなかった。右手には上部に彫刻を施した柱が並んでいる。パピルス、ハスなどを表しており、パピルスはナイル川下流の下エジプト、ハスは上流の上エジプトの象徴で、共存しているのは統一エジプトの証だという。しかし、塔から離れた方の柱は、柱頭の彫刻がされていない。この一帯の遺跡は、末期王朝最後の第30王朝時代(紀元前380年~)から建設が始まってローマ時代まで続いたというが、どうやら完成しなかったということらしい。後世の人にとっては、建築過程がよく分かる貴重な神殿になった。


塔門をくぐって神殿の中に入る。壁に囲まれた庭のようになっていて、壁面にはさまざまなレリーフが刻まれている。さすがに名前の通り、イシス女神に関するものが多い。エジプトの神話や神々の家系図を知っていれば、もっと楽しめたかもしれない。ちなみに、イシス女神は太陽神ラーの娘、冥界の王オシリス神の妹で妻、ハヤブサの姿をした天空の神ホルス神の母というなにやら複雑な感じだ。この3人はレリーフでふんだんに登場する。日や風雨にさらされていなかっただけ合って、繊細なレリーフはかなりくっきりと残っている。ただ、神殿内は照明が暗いので、目を凝らしてみないとはっきり分からないところもある。


フィラエだけではなく、神殿のレリーフなどでよく見かけるのがアンクという「生命」「命のカギ」と呼ばれるもの。十字の上に輪がついたような、動物の雌を表す記号のような、♀の形をしている。人が手を横に伸ばした形ともいわれているそうで、フィラエでも、神や王、王族が手に持った状態で描かれている。この「命」のやりとりなどが大切らしい。土産物でも銀製アンクをよく見かけるので、興味のある方はどうぞ。

ユネスコの水没からの救済事業では、アブシンベル、フィラエ両神殿ほかカラブシャ神殿など14の遺跡がナセル湖の水面より上に移築され、当時で費用は8000万ドル(288億円)以上かかったという。一からつくったらいったいいくら掛かるのだろうか。アスワンハイダムによってエジプトの治水は大幅に向上して暮らしがよくなったという。価格で遺跡の価値は決まる訳ではないが、現在と過去を両立するのはそれぐらい大変だということなのだろう。
◇寄ってみました◇
アスワンは、ダムの印象が強いので新しい街かと思ったら、そうではなかった。古代エジプト時代にピラミッドの石などを切り出していた石切場に案内される。ファラオが神殿の前などに建てた石の柱オベリスクもここで切り出された。高いもので30メートルぐらいだそうだが、まだ岩の中に形が縁取りされながら放置された「切りかけのオベリスク」は41メートルもある。途中にひびが入っていたので断念したのだが、立てられたとしたら最も高いものになっていたという。

アガサ・クリスティーが映画「ナイル殺人事件」の原作「ナイルに死す」を執筆したのが、ホテル「オールド・カタラクト」。ナイル川の河岸に建っている。ナイル特急の始発(終点)で、ホテルはロケの舞台にもなり、クリスティーが使った部屋も当時のままになっているという。夕暮れどき、この地方のヌビア料理のレストランに行くためにファルーカという帆がついた舟に揺られながら、1899年創業という格式あるホテルを、ナイル川の上からながめた。

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2012年1月 9日
◆万里の長城(中国)◆(1987年登録)
子どものころ、「月から見える唯一の建造物」と聞かされてきた。2003年に中国の宇宙飛行士が「宇宙から見えなかった」と証言した。その後、宇宙ステーションから撮影した写真には写っていたといい、肉眼で見える見えない論争は続いているが、「人類の大仕事」は色あせない。2002年、行ってみた。

中国北方の民族の侵入を防ぐためにつくられたこの城壁、東は朝鮮半島近くの海につながる山海関から、西は内陸部の砂漠地帯にある嘉峪関まで連なる。すべてが1本につながっている訳ではないが、全長6000キロ強。ピンと来ないが、ちなみに日本は南北に約3000キロなので、日本往復分の城壁をつくったことになる。修復されていないところも多いといい、北京郊外にある長城の「一部」を見るのが一般的。修復、整備されていてもっとも見やすいのが八達嶺長城で、近くには居庸関長城もある。

八達嶺の門をくぐると、すぐに城壁が目の前に現れる。城壁といっても、通行はしなければならないので、関所の役割をする小さな城のような塔がある。そこが登城口になっていて、ちょうど谷の底のような感じ。階段を上って城壁の上に出ると「男坂」「女坂」という登り坂に分かれている。ガイドによると「男坂は登りは急だが高いところまで登れる、女坂は周りの景色がいい」という。「男は男坂、女は女坂」という決まりは特にはないということだったので、景色のいい方を登り始めた。当時はロープウエーで女坂の上の方にも行けたが、事故などもあっていまはロープウエーはなくなっているという。歩きだけなので、時間と体力のある方は両坂をどうぞ。


城壁の高さは7、8メートル、上部の歩けるところの幅も5、6メートルはある。「楼」という兵士の詰め所のようなところが、100メートル程度の間隔をおいて造られている。とにかく30分をメドに行けるところまで行ってからゆっくり下りてこようと考え、まずはひたすら登った。意外と急傾斜。階段があったり、石の表面がすべすべしていて手すりや壁面につかまらないと滑ってしまいそうな場所があったり。馬で行き来できるという話を聞いていたが、広さは十分だろうが、馬のひずめでは滑ってしまい、とても走り回るのは無理だろうと思った。


時折、後ろを振り返ると、男坂がきれいにみえる。上に行けば行くほど、山の尾根づたいに築かれている長城の様子も分かる。楼を数える余裕がなく、どこまで登ったかはよくわからなかったが、たぶん北七楼あたりまで行ったのではないかと思う。そのあたりでは十分高いところだった。遠くの山々を見ると「あんなところまで」と思えるほど、城壁が山の尾根伝いに延々とつながっている。汗をふきながら眺めた。風が心地いい。

この城壁、秦の始皇帝が築いたと言われているが、当時は馬で越えられない程度の土塁のようなものだったそうで、現在のようにがっちりとした城壁になったのは、明の時代だという。前王朝のモンゴル民族が建てた元のような、異民族の時代に逆戻りしないように改築された。しかし、次の王朝の清は北方民族でもあり、万里の長城を破って侵入した。そのころから長城も不要になっていった。現在は取り壊されたり、材料を転用されたりして、かなりの長城がなくなっているという。延々と土を盛り、レンガや石を積み上げて築いた、その労力たるや、膨大だったはず。帰りがけ、近くにある居庸関長城を車窓からながめた。男坂にも増して急傾斜に見えた。足場のよくない山の尾根が主の建設で、多くの犠牲者が出たことも想像に難くない。

◇食べてみました◇
北京といえば、北京ダック。老舗として日本でも知られている全聚徳に行った。店は天安門近くにあった。北京ダックは、アヒルの丸焼きにして、焼き上がった皮をそぐようにして切り取り、ネギやキュウリなどと専用の味噌と一緒に小麦粉でつくった、餃子の皮のような薄餅に巻いて食べる。この店では、調理人がワゴンで運んできて、焼き上がったばかりの北京ダックの皮をその場で切り取ってくれた。

北京ダックのほかに、アヒルの水かきを煮たものと、砂肝?の揚げ物のほか、野菜中心に数品がついていたが、1つの皿のすみに不気味なものが。どうみても、サソリ。飾りで置いているわけではないと分かってはいるが、一応「これ、食べるんですか?」とガイドに聞くと「薬です。体が強くなります。嫌いですか?」といわれた。初めてなので好きか嫌いかは分からないが、せっかくだから食べてみた。カラカラに揚がっていたので、食感は小エビの素揚げのような感じ。ちょっと噛みしめてみたが、少し苦みが舌に残った。

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2011年12月16日
アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群(エジプト)上 (1979年登録)
チュニジアのジャスミン革命に端を発した反体制運動「アラブの春」の影響で、エジプトの政権が混乱、外務省の海外安全情報では首都カイロなど「渡航の是非をお勧めします」となっている。カイロに入れないと、なかなかエジプトを見て回ることはできないので、早く混乱が静まるのを願うしかない。世界遺産の代名詞にもなっているヌビア地方の「アブ・シンベル神殿」には、2006年、行ってみた。
ヌビア地方はナイル川を遡って、現在のスーダンとの国境付近にある。かつては、ナイルの源流といわれた地方で、今はアスワンハイダムによってできたナセル湖という人口湖が広がっている。その湖岸に、アブ・シンベル神殿が建っている。元々は、今の場所よりも約60メートル下にあったが、ダム建設で湖に沈んでしまうため、ユネスコによって1000以上のブロックに切り分け、1964年から68年にかけて現在の場所に移築した。岩山をくりぬいて造った岩窟神殿だったが、現在の山はコンクリートで基礎が造られているという。アブシンベルに着く飛行機からも見える。

造ったのは、約3000年前のエジプト新王国第19王朝のラムセス2世。この名前は、エジプトではよく聞く名前。「建設王」とも呼ばれ、メンフィスにあった「巨大像」の主でもある。多くの建築物、建造物に自分の彫像を置いたり、カルトゥーシュ(ヒエログリフで書かれた名前を輪で囲んだもの。日本で言うと印、花押か)を刻んでいるが、ガイドは「90%は他の人の建造物に自分のカルトゥーシュだけを入れた。ずるいファラオ」と、3000年以上前のことに憤慨し「私はトトメス3世が好き」という。ファラオは、今のエジプトの人たちにとってけっこう身近な存在なのだろう。日本でいえば、信長や秀吉、家康といった戦国時代の武将のような存在だろうか。ラムセス2世の建造物はあまり信用できないようだが、一番力を入れたと思われるアブ・シンベル神殿は間違いなく「偉業」だろう。ちなみに、彼に会いたい方はカイロの考古学博物館のミイラ室に安置されている。

大神殿。太陽神ラーをまつっているという。正面にある巨大な4体の像(1体は崩れているが)はすべて、ラムセス2世本人という。よほど、自分好きだったのだろうか。足元には、子供ら家族の像が小さく置いてあり、外壁面のレリーフはくっきりとしている。20世紀初めに掘り出されるまで、長く砂に埋もれていたのが幸いしたのだろう。神殿内へはカメラは持ち込み禁止だった。

入ってすぐに、オシリス神(冥界の王、穀物神)の格好をした、ラムセス2世の像が柱になって8本立っている。エジプトの神々の詳細は割愛するが、オシリスと、妻で妹の太陽神ラーの娘イシス、この2人の息子のホルスはこのあたりではたくさん出てくるので知っていると便利。壁面には、トルコ・アナトリア地方のヒッタイトとの「カデシュの戦い」などさまざまな物語、神話のレリーフがびっしり刻まれている。カデシュの戦いは証拠が残る最古の和平条約が結ばれた戦いで、エジプトにとっては負けに等しい引き分けだったことが、ヒッタイトの遺跡であるトルコ・ハトゥシャ遺跡の発掘でほぼ確かめられている。ここエジプトでは華々しく勝ったように描かれているが...いつの世も、独裁者は自分を偉大にみせようとするものだ。

神殿の一番奥にある「至聖所」には、太陽神ラー、守護神アメン・ラー、宇宙の創造神プタハと、自分を神として描いた像の4体が並んでいる。春分、秋分には、太陽の光が真正面から当たるようになっているという。同じになるように移築作業の正確さにも感心する。


小神殿。こちらは、王妃ネフェルタリのために造られ、美の女神ハトホル神をまつってあるという。王妃の名は「もっとも美しい女性」の意味で、古代エジプト3大美人(ネフェルティティ、クレオパトラ)の1人だそう。神殿の正面には、ネフェルタリの像2体と、こちらにもラムセス2世像4体がそびえたっている。こちらも、壁面のレリーフははっきりと残っている。両神殿とも大きいことはもちろんだが、砂に埋もれて発見されただけあって「精緻」なのが印象的だ。
ピラミッド建設は、民衆のための公共事業だったという説が有力。こちらは、ラムセス2世が富と権力を誇示するためとも言われているので、庶民には迷惑だったかもしれない。

◇食べてみました◇
エジプトの名物料理第2弾。まず肉料理では、シシカバブとコフタ。シシカバブはよく聞く名前で、羊の肉と野菜の串焼き。たぶん、塩ぐらいでしか味付けをしていないと感じた。羊は子どものころから食べているので抵抗感はなかった。コフテは、ミンチを串に巻き付けて焼く。肉の中に香辛料を入れて味付けしてあり、串から抜いて出された。日本で言うと、焼き鳥のねぎまとつくねといったところか。

もう1つは、ターメイヤというコロッケ。具は空豆でつくってあるという。切ってみると、確かに緑色をしていた。ふわっとした食感だった。そのほかに、モロヘイヤを煮込んだスープというのも食べた。古代エジプトのファラオも健康のために飲んでいたというから、エジプトの食べ物にも長い歴史がありそうだ。

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2011年12月 8日
ピサのドゥオモ広場(イタリア) (1987年登録)
「ピサの斜塔」といえば、世界中の人が認める奇妙な建物の代表格だろう。ガリレオ・ガリレイとの関係も有名だ。1991年、行ってみた。
「斜塔」のある街へは、フィレンツェから半日のバスツアーで行った。電車でも1時間ぐらいで行けるという。このピサのドゥオモ広場というのは、斜塔のみがクローズアップされて周りに何があるかよく分からないが、メーンは大聖堂(ドゥオモ)。その隣に建てられた鐘楼が、通称「ピサの斜塔」。日本でいえば、お寺の本堂の脇にある「鐘」をつるした鐘撞堂といったところ。大聖堂の付属の建物だが、傾いたおかげでこちらの方がよく知られるようになった。

1173年から建設が始まったが、4階まで造ったところで傾き始めたという。原因は地盤沈下。塔の底面に硬いところと軟らかいところがあったらしい。その後、まっすぐにしようと設計変更もされたが、修正できなかった。当初は高さ100メートルの予定だったというが、1372年に完成したときは、高さ55メートルと予定の半分ぐらいになってしまった。最上階だけは地面に垂直に建てられているので、なんだか上と下でバランスが悪く見える。傾きを止めるのをあきらめて、斜塔を「売り」にするために、危なっかしく見せる演出だったとしたら、なかなかの発想だ。
斜塔を世界的に有名にした逸話が、ガリレオの実験。重さの違う石を落としても同時に地面に着くという自由落下実験をした場所として知られる。その後も年々傾きを増し、行ったときは傾きを止めるための工事が行われていた。せっかく大小の石を拾っておいたのに、残念ながら塔に上れなかった...まあ、実際に落とすのは無理か。2001年に工事は終了して、いまは人数制限があるが上れるそう。報道によると、今後300年は持つというので、これから行こうと思っている方は心配無用。石はやめよう。
大理石でできた、白い塔は青空にはえる。メーンの建物、ドゥオモの白さも鮮やか。柱とアーチを組み合わせた外観も美しい。ドゥオモの中に入る。薄暗い中に光るランプの揺れから振り子の法則を発見したという「ガリレオのランプ」。どうやら、ガリレオはここピサでいろんなことを見つけたらしい。後世のねつ造という説もあるが、そう思って見ると、ランプも特別なものに見えてくる。


さて、その大聖堂の前にある広場。斜塔と反対側にはドーム状の洗礼堂があり、芝生がきれいに刈りそろえられ、寝転ぶにもちょうどいい。そこにいた先客たちがはしゃぎながら写真を撮りあっている。そんなグループがあっちにもこっちにもいて、意外と騒々しい。観察していると、斜塔をバックにさまざまなポーズをとっている。一番多いのが、斜塔の右に立って、手を上げて倒れるのを支えるポーズをとっている人。そのほかにも、蹴る格好や、押し倒す格好などなど。写真が出来上がったときに、斜塔と遊んでいるようになる。自分が斜めになって斜塔と平行に立ち、写真上では斜塔をまっすぐになっているようにポーズをとる人もいれば、斜塔と体を交差させて完全に倒してしまう人もいる。当時はフィルムカメラだったので、できあがるまでどう写ったか分からなかったが、今のデジタルカメラならその場で楽しめる。とかく、観光地での写真は絵はがきのようになりがち。写真の楽しみ方を、いろいろ「発見」させてくれるのも、斜塔という「異空間」ならではなのかも。ガリレオが知識欲を刺激された理由なのかもしれない。

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2011年11月30日
フィレンツェ歴史地区(イタリア) (1982年登録)
ウフィツィという、舌をかみそうな名前の美術館がルネサンス発祥の地、フィレンツェにある。教科書に載っていた名画、彫刻を見ようと、1991年、行ってみた。
ものすごく簡単に言ってしまえば、1400年代にイタリアを中心にギリシャ、ローマ時代の芸術、文学、思想などの文化を復興させようとしたのが「ルネサンス」。フィレンツェはその中心になった場所。中央駅近くから出る半日市内ツアーに申し込んだ。バスの出発時間まで付近をぶらつくと、公園の中にある寄木細工のような教会が目を引いた。サンタマリア・ノヴェッラ教会で、白と深緑、黒といった大理石を寄せ集めて作られており、遠めに見ると「おもちゃ」のようだ。2009年にクロアチアのドゥブロヴニクに行ったとき、世界で3番目の薬局があったので調べてみたら、このサンタマリア・ノヴェッラ教会の中に世界最古の薬局(1221年創業)があるという。知っていればのぞいたのに。

バスに乗り込んでまずドゥオーモ(大聖堂)へ。「サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)」という冠がつく立派な聖堂なのだが、その横に立つ「ジョットの鐘楼」の方が目を引く。高さ約85メートル。幾何学模様と浮き彫りの緻密さに感心させられる。ちなみに、ジョットとはジョット・ディ・ボンドーネという画家・建築家で、フィレンツェで活躍し、ルネサンスのさきがけになった人だという。鐘楼は中にある階段で見晴台まで上れるというので、体力がある方はどうぞ。八角形の洗礼堂を含め、白と緑を中心にいろいろな色の大理石でできているが、統一感があっていい味を出している。


アカデミア美術館に入る。ルネサンスの代表的な芸術家ミケランジェロの「ダビデ像」が鎮座している。れっきとした「オリジナル」。やはり、人だかりができている。ルネッサンス期の絵画、彫刻がどっさりあって、とても覚えられないので「ダビデ像」だけでもと、しっかり目に焼き付けてきた。

半日コースの最後が、丘の上にあるミケランジェロ広場。フレンツェ市内を一望できる。やはり、目立つのがドゥオーモとジョットの鐘楼、そしてベッキオ宮の鐘楼。帰りは好きなところで降りていいというので、ベッキオ橋のたもとで降ろしてもらった。市内を流れるアルノ川にかかり、橋の上は商店街。小さな店が軒を連ね「アメ横」といった風情。なんとなくほのぼのとする。


翌日は、第1の目的地・ウフィツィ美術館へ。ウフィツィはオフィスの意味で、ここにルネサンスにかかわる芸術家を育てたメディチ家のオフィスがあったという。フィレンツェでは「メディチ」という言葉がキーワードなのでお忘れなく。キラ星のごとくの芸術家の中で、美術館の中心になるのはダビンチ、ラファエロにボッティチェリ。特にボッティチェリの作品は、どこかで知っているものが多い。「ヴィーナスの誕生」は「これがあの...」という感じで、「プリマベーラ(春)」「東方三博士の礼拝」など名画がずらり。ダビンチも負けてはいない。「受胎告知」「東方三賢王の礼拝」などが、どうだ、という感じで飾られている。ラファエロも含め、これでもかというように「オリジナル」が登場するので、見ているうちに、ありがたみもだんだん薄らいできてしまう。


美術館を出ると、隣がベッキオ宮。ここは昔、フィレンツェ共和国の中央政庁があったところだという。ベッキオ宮の前がシニョーリア広場。フィレンツェ市内には、こうした広場がところどころにあり、ベンチが置かれていて、休憩に絶好だ。ちょっと、ベンチに腰を下ろした後、ジョットの塔に向けてぶらぶらと歩き始めたが、ピッツァの看板には勝てず、吸い込まれてしまった。
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2011年11月25日
古都アユタヤ(タイ) 1991年登録
2011年、タイが過去最大の洪水被害に見舞われている。11月中旬になって、ようあく水が引き始めているということだが、日本企業が多く進出している工業団地のあるアユタヤも被害を受け、ワット・プラ・シー・サンペットはじめ世界遺産に指定された遺跡の多くが水に浸かったという。生活の場はもちろん、早い復興を願うばかりだが、日本人にもなじみなあるこのアユタヤに、1999年、行ってみた。
バンコク市内から北へ1時間半~2時間ほど、高速道路をすっ飛ばす。アユタヤ郊外にある、歴代の王が夏の離宮として使っていたバンパイン宮殿に立ち寄る。現在の建物は王朝滅亡後に再建されたもので、けっこう派手な建物が並ぶ。タイ風、中国風、西洋風などなど。でも一番楽しかったのは、象や鳥に剪定された庭木だった。


さて、アユタヤに入る。9月だったが、ムッとする暑さ。ワット・ヤイ・チャイ・モンコン。ワットは寺院のことで、ここはアユタヤでも一番古いとされている。ガイドの後ろをついて、屋根がない建物のようなところに、突然「涅槃(ねはん)仏」が現れる。黄色い布がかけられている。やたら目が大きく、しかも笑っている(微笑んでいる、のだろうか)。20メートルぐらい。足もでかい。でかいといえば、この涅槃仏の背中の向こうにそびえる仏塔。高さ70メートルぐらいあるそう。途中まで階段を上って中に入ることができる。ここにも黄色い布をまとい、微笑む座像が鎮座している。上るのに汗をかくが、中に入るとちょっとひんやりしていて気持ちがいい。参道には石仏が並んでいるが顔のないものが多い。

ワット・プラ・シー・サンペット。アユタヤに行くツアーのパンフレットに必ず登場するのが、この寺。3基のスリランカ様式の塔(チェディ)が一直線に並ぶ。夜はライトアップされるという。付近は史跡公園になっていて、階段で途中まで上っていける。アユタヤ王朝は14世紀半ばから35代、18世紀半ばまで栄えた。ここは王室専用寺院で、15世紀に、マーラーティボーディー2世と父と兄お墓だったそう。もともとは金で覆われていたとガイドが説明してくれた。王朝が終わった18世紀半ばにビルマ軍との戦いに敗れた際、はがされて持ち出され、焼かれたという。いまあるのは、その後に再建されたものだという。

公園の入り口から入って一番右側の塔のテラスのようなところから下を見下ろす。レンガで造られた建物も残がいが広がる。これがかつての王宮跡だという。これもビルマ軍に破壊されたらしい。どんなりっぱな街でも戦に負けると焼け野原。やっぱり昔から戦争の後はこうなってしまうのか、とぼんやり眺めていた。


サンペットの横に現在の寺院があった。人がひっきりなしに入っている。ガイドが「お参りしますか」。ごった返す中で手を合わせた後、今度は「おみくじはどうですか」。買ってもらったが、タイ語で書かれていてさっぱりわからなかった。古都らしく、そのほかにも見どころはたくさんある。アンコールワットの塔に似て丸みがある(クメール様式)ワット・プララームやワット・マハタート、そこの菩提樹の根に包まれた仏頭も有名だ。ちょっと郊外には30メートル近い涅槃仏が野ざらしになっている。
忘れてはいけないのが、17世紀に山田長政がいた日本人町。日本人町跡自体は何も残っていないそうだが、当時はアユタヤ王朝の信頼を受けて貿易を取り仕切っていたという。現在もこの地に日本企業が進出しているのは、何か因縁を感じる。
◆寄ってみました◆
バンコク市内を流れるチャオプラヤー川が氾濫し、タイの首都も大きな洪水被害を受けた。エメラルド寺院、暁の寺、涅槃仏寺など多くの寺院も例外ではなかったという。
ワット・プラケオ、通称エメラルド寺院は、本尊がエメラルド色の翡翠(ひすい)で出来た仏像。3つの塔が目を引く。中にはいると猿の神様はじめ、いろいろな動物をモチーフにした神々の像やレリーフが目につく。本堂は日が差すとキラキラ光る。壁をよく見ると、様々な色の小さなガラス片や陶器片を無数に張り付けてある。本尊は...のぞき込むように見るが、小さいのでよく見えなかった、というのが正直なところだった。

ワット・ポー、涅槃仏寺には金箔の涅槃(ねはん)仏を安置してある。全長約50メートル。周りをぐるりと巡る通路のスペース以外はほとんどないような堂の中にある。5メートルはありそうな足の裏の細かな細工は、バラモン教の世界を螺鈿で描いているという。取り囲む通路には黒い壺が置いてあり、のぞくとコインが入っている。「入り口で専用のお金を買って、お参りしながら1つの壺に1つコインを入れていくのです」とガイド。壺は108つあった。

最後にワット・アルン。三島由紀夫の小説「暁の寺」の題材になり、通称「暁の寺院」。行き方は少しわかりにくく、にぎわう市場の中を取って船着き場へ出て、チャオプラヤー川を渡る舟で対岸にいく。行ったのは雨期終盤だったが、水量は多かった。塔の形が特徴的だが、ヒンドゥー教のシヴァ神が住むカイラーサ山の形をしているという。大仏塔の周りをぐるっと回った。外壁は、細かな装飾を施したタイル。地面には12支の動物の像が並ぶ。裏手に回ったころ、スコールがきたので近くにあった寺院に入った。軒下を借りるため、おはらいを受けた。雨宿りに入ったつもりが、水をかけられ、フワッとした素材のついた棒でおはらいをし、左手に毛糸を巻いてくれた。

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